Dark and Real(5)





 新生『エトルリア軍』はエリミーヌ教団の協力を受けて長き遠征の徒についた。
 エトルリアとイリア国境のレーミー向けて進軍。それからイリア地方に入る。
「ねえねえ、お姉ちゃん。これからどこに行くの?」
 輸送隊も兼ねた馬車の中で騒ぐのはとても幼い少女、ファ。
 すぐ近くで荷物整理の仕事をしていたセシリアは優しく答えた。
「レーミーと言う所よ。海の方ね」
「うみ? うみってなに?」
 首を傾げるファに母親のような温かさで答える。
「水がいっぱいあるところよ」
「お水がいっぱいあるの?」
「ええ。でもしょっぱいから飲めないわよ」
「そうなの?」
 そんなたわいもない会話をしながら、整理を続けていく。
 途中でファの遊び相手にもなりながらでもあり、非常にゆったりとした時間が過ぎる。
「お姉ちゃん…。ファ…ねむくなってきちゃった…」
「あらあら。じゃあ待ってて。今、毛布敷いてあげるから」
 棚から毛布を一枚出して邪魔にならない一角に敷く。それからファを連れて来るとすぐ横になった。
 その上からさらに毛布をかけてゆっくり寝かしつける。
 あどけない寝顔に、今頃幸せな夢を見ているのだろうかと思う。
(私も幸せな夢が見たいわね)
 くすり、笑って外を見る。しかし眠くはないので何かして過ごそうかなと思った。
(本でも読もうかしら…)
 とは言っても娯楽小説の類などは無い。戦闘に使う魔道書なら大量に置いてあるが。
 気分転換なので、適当に一冊引き出して開いてみた。
 中身は複雑な図形と普通使わない文字。
 しかし見ているだけでそこに秘められた力が染み渡ってくる。
 力ある言葉。力ある文字。
 魔道を扱う者たちはその力を行使している。
 その力を――理解できる。
(私は…何者なのだろう。この…魔を行使する者…?)
 力がいかに強大であるか、理解できる。
 それは扱う者だからこそわかること。
 ならば自分は――。
「考えすぎは、いけないわね」
 首を横に振って、考えを振り払おうとする。
 記憶さえ取り戻せれば、おのずと自分が何者かわかるのだ。
 …けれど、やはり考えてしまう。
 私は誰なのだろうか。
 魔道書を閉じて、自分の両手を見つめて考える。
 今までの周りの態度や話を総合して、自分が戦場にいて、なおかつ貴族の者たちに近しい人間である
 ことは分かる。しかしそこまでだ。それ以上はわからない。
 セシリアは空を仰ぐ。
(私は何者ですか? …あなたの傍にいられる者ですか…?)
 ふと浮かんでしまった顔に、セシリアは少々顔を赤らめた。
 本当に、焦がれているのだと改めて自覚する。
 闇に怯える自分を引き上げて、見ることが出来るようにしてくれたあの人。
 私は、あの人を記憶を無くす以前から、おそらくは。
 だから今傍にいられるだけで幸せなのだ。
「…それ以上を…望んでは…いけない…」
 分かってはいるのに、望んでしまう。
 悲しくなるぐらいの恋情。
 気が付けば、少しだけ泣いていた。
「ふふ…ダメね、私…」
 パタンと魔道書を閉じて、涙を拭って目を閉じる。
 決して自分の心に嘘はつけない。
 それだけの想いを抱く相手。
 愛しています。あなたを。
 あなたは、私をどう思っていますか…?
「おや、どうなされましたか、セシリアさん」
 はっと我に返る。
 エリミーヌ教の神父サウルの姿がそこにあった。
「…サウル。なんでもないわ、大丈夫」
「では、なぜ暗いお顔を? 女性は笑顔が一番です」
「…事情は知っているでしょう? 何も思い出せないのは…辛いのよ」
「そうでしたね。…焦らずゆっくりと思い出していきましょう。
 ですが、あなたのお顔を見ていると、どうも恋に悩む女性の顔をしていますが?」
「……」
 飄々としていながらもなかなかに鋭い勘の持ち主が彼だ。
 普段の言動からはあまり聖職者に見えないのだが。
「そうかしら。でも悩みが多いのは、確かだけど」
「ならばセシリアさん。正直にお話してみてください。良ければ今夜、私の説教など聞きながら…」
 そこで感じたのは、殺気に近いもの。
 おや、と思って後ろを振り向いたサウルが見たものは…。
「し〜ん〜ぷ〜さ〜まぁ〜?」
 鬼のような形相で仁王立ちする、ドロシーの姿だった。
 みなぎるオーラと恐ろしさに、凍りつく。
「ド、ドロシー…!」
「なにやってるんですか! 毎日毎日!」
「こ、これ止しなさい。セシリアさんがいらっしゃる前で」
「私は構わないわ。ドロシー、連れて行っていいから」
「ああっ、そんなぁ〜」
 ズルズルとドロシーに引っ張られ、連れて行かれるサウル。
 見送ってから、空を仰ぐ。
(恋に悩む…か。そうね。今の私には悩み事が本当に多いわ)
 自嘲的な笑みをセシリアは浮かべた。




 レーミーで、エトルリアのクーデター残党と戦闘に入った。
 潮の満ち引きで出来た道を騎兵隊が突撃。城へと進撃する。
 後方で負傷兵の手当てをクラリーネ達と共にセシリアは行っていた。
 傷ついて倒れる兵士達。以前ほどではないけれど、心に痛むものはある。
 けれどそれで手当てを止めるわけにはいかない。
「…?」
 また一人、手当てを終えたところで急に地面が暗くなる。
 空を見上げると天馬の群れ――いや、天馬騎士の部隊がこちらに向かって来ていた。
 武器を手に襲い掛かって来る。敵の部隊だ。
「キャアッ!」
「!? クラリーネ!」
 悲鳴に顔を向ける。
 間一髪で避けたらしい。クラリーネのすぐ傍には手槍が突き刺さっている。
 迎撃に待機していた弓部隊が応戦して数は減るものの、
 一部は後方の負傷兵達に止めを刺そうとしている。
(助けないと)
 強い使命感に、駆られる。
 ――でも、どうやって?
(それでも、助けないと。私は――)
 ――私は…?
 一瞬自分の考えに戸惑ったものの、セシリアは負傷兵をかばうように前へ出た。
「セシリア様っ!」
 悲鳴に近い、クラリーネの声。
 敵の天馬騎士は負傷兵をかばうセシリアに狙いを定めたようで急降下して狙って来る。
 敵が、来る。
 私を殺そうとする。
 現実を帯びるたびに左肩が、疼く。
 全身が小刻みに震える。
(…こんなことが…前に…あった…)
 目の前の影が、揺らめいて襲い掛かる。
 熱を帯びる左肩。


 紅くなる視界。


 そして闇に飲まれる意識。


 怖い。


 …嫌。


 ……嫌っ。



 ―――嫌ぁっ!!



「エイルカリバーっ!」
 声とともに風の刃がセシリアの後ろから飛んできて、敵を切り裂く。
 翼を失った天馬は直前で墜落した。
 飛び散る鮮血は目の前にいたセシリアが浴びる。
 紅い、血。
 ドクン、と大きな心臓の鼓動が彼女の全身を震わせる。
 この血は誰のもの?


 これは。これは――。


「セシリアさんっ!」
 声に我に返った。後ろを振り向くと魔道書を持ったリリーナがいた。
 彼女が助けてくれたようだ。
「大丈夫ですか!?」
「え、ええ…ありがとう…」
 力なく微笑むと、その直後膝をついた。
「セ、セシリアさん!」
 ショックと緊張が解けたせいなのか、ゆっくりと彼女は意識を失っていった……。




 夢を、見ていた。
 自分の、本来の姿というべきなのだろうか。
 軍人の装いをした自分が、ロイ達と共にいる。
 けれど、徐々にその姿は……。




 レーミーで、元西方三島総督アルカルドを打ち倒した新生エトルリア軍。
 今夜はここで明かすことにして小さな宴がまた開かれた。
 野外ではなく城内ということではあるが、あまり変わりばえはしない。
「……」
 戦闘後の処務と軍議を終えたパーシバルは、ふと宴の会場に来てみた。
 こうやって戦闘の後に楽しく語り合うことは、
 自分が生きていることを証明する術なのかもしれないと思う。
 そう言えば自分はそんな事を一切していない。気を緩めてはいけないという自分への戒めでもあるし、
 出来るような親しい相手もあまりいなかったからだ。
「…?」
 ふと、壁のあたりに目をやる。
 沈んだような顔で、窓から外を見ていると思われるセシリアを見つけた。
 なぜか暗い表情をしている。
 聞いた話では負傷兵をかばおうとして敵兵の前に立ったと。
 その後気を失ったとか。
「おや? どうか、したのかな?」
「!?」
 不意打ちのように背後から声をかけられて不覚にも驚く。
 振り返ったその先には、自分の主君が柔らかな微笑で立っていた。
「…で…いや、エルフィン殿…」
「どうせ、見ていたのだろう?」
 囁くような声が、普段はポーカーフェイスで知られている彼の顔を動揺に変える。
「何を、仰りたいのですかっ」
 他人には分からないように小さな声だが、明らかに動揺しているのが分かる。
「なあに。少々手助けをしてやろうと思ってな。少し後押ししてやるから」
「な、そのような…」
「いいのか? お前のために諦めてやったんだが…なぁ」
 顔は笑っているが、目は笑っていない。
 それが少々怖い…。
「……」
 カクリと、うなだれるパーシバル。それを肯定と受け取ったエルフィンは満足そうにうなずいた。
「成立、だな。少し待ってろ」
 ニヤリ――笑って、エルフィンは窓から外を見るセシリアの元へと行った。
 顔を押さえて、パーシバルはため息を一つ。
 悪いとは思うけれど、偽ることのできない想い。
 罪とともにある、確固たる感情。
 すると、彼女がこちらにやってきた。
「…どうかなされました…?」
「あ、…いや。お前こそどうした?」
 彼女は少々戸惑いながらも答えた。
「いえ。エルフィン様が、話でもしてきなさいと…。私も、少し話がしたいと思っていましたから」
「……」
 セシリアの表情はどこか暗い。
 なぜなのだろうか――と思っていると傍にエルフィンが来て囁いた。
(気を紛らわせてやれ、彼女の)
(はっ?)
 同じく小声で返すパーシバル。それはなぜだろうと思ったら彼が補足した。
(少々様子がおかしいからな。無理に刺激しないほうがいい。今回は特に…な)
(…承知しました)
(と言うわけで、これでもな)
 すっ、と差し出されたのは、グラス二つと――ワイン瓶。
「たまには飲んで、ごゆっくり」
 とはっきり吟遊詩人に戻り、微笑で言った。
 この辺りは知恵の利く王子である。
 グラスとワイン瓶を受け取るしかなく、はめられたような気分になる。
「それでは」
 と、エルフィンはその場を去っていった。
「…どうする?」
 彼の姿が見えなくなって、パーシバルはセシリアに尋ねる。
 恐れ多くも主君から渡された以上は、飲む…べきではあるのだろうが。
 しばし二人で考え込む。
 やがてセシリアが、上目で彼を見上げ、言った。
「…せっかくいただきましたし…少しだけなら…」
 同じ事を考えていたようだ。
 あまり飲むのは感心できないが、面目もある。
 二人のグラスに約四分の一程度注ぎ、近くのテーブルに瓶を置いた。
「少しだけなら、な」
「あ、はい。では…いただきます」
 グラスを受け取って、様子をうかがうセシリア。
 彼が口を付けたのを見て、おそるおそるグラスを傾けて…。
 ――ドサリ。
「…は?」
 一瞬、パーシバルは何が何が起きたか分からなかった。
 床には顔を赤くして倒れているセシリア。
 テーブルには飲みかけのワイン。
「一口で…倒れたのか…?」
 状況から考えて、それしか思いつかない。
 が……。
(ちょっと待て…。あいつ、弱くなかったはずだぞ…)
 記憶を辿ってみる。
 彼女は確かそんなに弱くはなかったはず。
 舞踏会やらなんやらで多少飲んでいるところを見かけたことがあるが、普通だった。
(記憶喪失になると酒に弱くなるのか…?)
 なんて事を思いながら、倒れた彼女を抱え上げて会場をそっと抜け出す。
(部屋で寝かせておくか)
 結論を出して、一つ穴が。
 ――部屋が、分からない。
 現在は状況を考えてクラリーネとの相部屋なのだが、その部屋の場所がわからない。
 先ほどの会場にクレイン及びクラリーネの姿はなかった。
 これはどうしたものか。
(…仕方がないか)
 考えて抱えながら歩き出す。これは迷うことなく目的地へと一直前に向かっていく。
 やがて目的の部屋が見え、上手く手を空けて扉を開けた。
 中は殺風景で、槍や剣が立て掛けられている。
 そう、ここは自分の部屋だ。
 ベッドに寝かせ、毛布をかけてから明かりをつけると月明かりはランプの明かりに溶け込んでしまう。
 厨房から水をもらってこようと、一旦部屋を出た。




 途中で思う。
(このまま目を覚まさなかったら…)
 ベッドは彼女が占拠中。
 いくらなんでも一緒の部屋で眠るわけにはいかない。
 確か空き部屋が少々あったはずだ。
 ならその空き部屋で眠ろうかと決める。
 戻ってきた時まだ彼女は眠りについており、無防備な寝顔をさらしていた。
「……」
 最近は夜も怖くないと言っていた彼女。
 無防備な寝顔からはそれが伺えるが本当は常に深淵にある恐怖と戦っている。
 白いシーツに広がる鮮やかな翠の髪。近づいてそっと撫でて指で梳く。
「…う…んっ…」
 反応したのかセシリアが身じろぎする。慌てて手を髪から放した。
 しかし。
「…や…っ。い…や…」
 セシリアは苦悶の表情でその身体を捩り始めた。
 必死になにかに抵抗するように首を振り、身体を捩っている。
「セシリア…?」
 パーシバルは暴れる身体を押さえるように肩を掴む。
「嫌…やめてっ! やめてぇっ!!」
 そして悲鳴をあげる彼女に、パーシバルは必死で名を呼んだ。
「セシリアっ! ――セシリア!!」
 大声での呼びかけだったからか、はっとセシリアは目を覚ました。
 瞳を大きく開き、心配そうに自分を見るパーシバルを見る。
「…あ…パーシバル…様…?」
「…だいぶ、うなされていたぞ」
 肩を掴む感触はあるけれど、まだ瞳はどこかうつろで、現実を確かめるように肩を掴む腕をとる。
「…ゆ…め…? 夢だったの…?」
 やがて現実に戻ってきたのだとはっきり分かると、その瞳からぽろぽろ涙がこぼれ始めた。
「どうした?」
「…こわ…かった…」
 もう思い出したくないと言うように目を閉じて首を緩く振る。
 いい加減に痛いだろうと思って手を放そうとしたが、彼女の手が、それを阻んだ。
「セシリア」
「…ごめんなさい…。ですけど…もう少しだけ…夢ではないと…確かめさせてください…」
 わずかにその手が震えているのが分かった。
 肩からは手を放すが、代わりに彼女の手をとった。
 合わせて、セシリアは半身を起こす。
 彼女は強くその手を握っている。いかに恐ろしかったかがよく分かる。
「…どうして…また…」
 唇からもれた小さな呟きを聞き、パーシバルは問い掛けた。
「…悪夢を見たのか?」
「…はい」
 ゆっくりと、ゆっくりと、うなずく。
 それから静かに語り始める。
「……私……みんなと一緒にいたのです。楽しく…とても楽しく。
 けれど…突然、消えていくのです。周りは闇に閉ざされて、何も見えなくなる。
 私は周りを見回します。そして…何かを感じた瞬間、私…私は…っ」
 体全体が震えだしたのを見て、パーシバルは即座に止めた。
「無理はするな」
「……ごめんなさい」
 小さく謝る。本当にこのときの彼女は戦乙女には見えない。
 未知のものに怯える子供だった。
「最近は、こんな夢見なかったのに…。昼間のせいかもしれません…」
「昼間?」
 オウム返しに尋ねた彼にまた、話し始める。
「あの、昼間の戦いで私…負傷兵をかばって前に出たのです」
「それは知っている」
「その時…私…感じたのです。前にもこんな事があったと…」
「…」
 おぼろげながらだろうが、記憶が引き出されてきているのだろうか。
 ただ、その時の恐怖には耐えきれていない。
 竜の巫女ソフィーヤが手段を講じなければ、確実に死んでいた。
 生に感謝すべきと同時に、死に対する恐怖が彼女の精神を蝕んでいる。
「…紅く染まって、闇に落ちる…。そうして二度と戻れない…。
 …どうしてこんなに…もう…嫌なのに…」
 ギュッと強く彼の軍服の袖を掴む。負けないように精神を振り絞っている。
「…私、助かりました。パーシバル様がここにいてくれて…。
 もし一人だったらもっと怯えていました…」
「構わない。それに、ここは私の部屋だからな」
「えっ」
 言われて慌ててセシリアは部屋を見回した。
 確かに、違う。かあっと顔が熱くなる。
「え、ど、どう…して…?」
「ワイン一口で、倒れたんだ」
「そ、そうなんですか…? ほ、本当に申し訳ありません…」
 しゅんとして謝るがパーシバルは緩く首を横に振った。
「気にする必要はない。お前が倒れた方が問題だからな」
「…パーシバル様…」
 セシリアはしばし戸惑った。
 どうして、この方はこんなに優しいのでしょうか。
 どうして私にこんな風に接してくれるのでしょうか。
 その度に私は心が揺れる。
 愛しいあなたに、すべてを告白したくなってしまう。
 ――あなたを愛しているのだと。
 けれどそんなことは許されない。
 何者かも上手く思い出せない自分で、あなたを縛り付けたくない。
 私は、あなたから現実と向き合う力をもらいました。
 それだけで…いいですから…。
「…セシリア…?」
 また、彼女は泣いていた。
 その涙を少し、パーシバルは指で拭う。
「…部屋に戻れるか?」
 答えずにうつむく彼女に、まだ無理かと思う。
「……」
 なぜ泣くのだろう。
 闇への恐怖に怯えていても、なぜ?
 何かが、違う。
 そんな顔を見たくない。
 もう一度、もう一度でいいから、微笑んで欲しい。
 それだけでいいから――。
「…どうして、泣いている? まだ…怖いのか?」
「……」
 ゆっくり、ゆっくりと――彼女は首を横に振った。
「…ます…」
 ポツリとこぼれた言葉。また涙をこぼしてセシリアは心の内を出した。
「…あなたが優しいから…。すごく優しくて…どうしたらいいか分からなくなっていて…」
「…」
「私、私、どうしたらいいか…。苦しくて、苦しくて…っ」
「なぜ…なんだ?」
 感情を抑えようとしても抑えられない。
 自分の頭を抱えて、彼の顔を見ないようにする。
 でなければ自分を抑える事ができそうにないと思ったからだった。
「私…私…」
 自分を抑えるようにするセシリアの姿は痛々しく、パーシバルには耐えられなかった。
 だから――。
「…!?」
 その腕に、華奢な身体を抱き寄せた。
 きつくきつく、二度と放さまいとして。
 苦しむその顔を見まいとして。
「…パーシバル…さまっ…」
「…どうして、お前が苦しまなければならない…」
 その声はわずかに震えていた。
「苦しみなら、私が受ける。だから、もう…苦しまないでくれ…」
 懇願のような、切実な願いの声。
 どうか彼女に幸福を、笑顔を――。
「もう一度でいい…お前の、微笑んだ…あの顔が見たい…」
 苦しむ彼女が辛すぎる。
「…なぜ…ですか…?」
 震える声で問い掛けるセシリアに、パーシバルは。


「――愛している。お前を愛しているからだ」


 ……。
 沈黙が、一瞬時を支配した。
 どう反応すればいいかも分からなくなっていた。
 ただ、どこか虚ろな瞳で、途切れ途切れな声で尋ねる。
「…わた…しを…?」
「ああ。ずっと、ずっと…お前を」
「…」
 歓喜が溢れてきた。
 けれど、こんな女をあなたは贖罪と言っていたでしょう?
 否定しないと。否定しなければ。
「…私は…あなたに愛されるような…女ではないです…。
 私はあなたにとって、罪そのものなのでしょう…?」
「それは違う」
 即座に否定の声が聞こえてきた。
「お前がすべてを忘れてしまったことは、確かの私の咎だ。
 だが、セシリア…お前は、私にとって二度と失いたくない存在なんだ。
 傍にいてくれるだけで…微笑んでくれるだけで…幸せなんだ。
 だから…生死不明と聞いたあの時…自分が自分でなくなりそうだった。
 もう二度と会えないと思っただけで…壊れてしまいそうだった…」
「…パーシバル、様…」
 本当の、心からの言葉――。
 そっとセシリアも、逞しい身体に腕を伸ばした。


「私も…私も、あなたを愛しています」


 一瞬、パーシバルの身体が反応した。
 それからゆっくり、涙に濡れたセシリアの顔を覗き込む。
「私…まだほとんど思い出せていないけれど…これだけは分かるのです。
 あなたを、ずっと前から愛していたことだけは」
「…セシリア」
 彼女は、ほんの僅かに微笑っていた。
「私、あなたが傍にいてくれるだけで、幸せです」
「私もだ。愛している、セシリア」
 湧き上がる想いは抑え切れず両手で顔を持ち上げた。抵抗はない。
 ――そっと、唇を重ねる。
 全身を波打つ歓喜と共に、互いの温もりを通わせる。
 身体の芯が熱くなる。
「…もう、戻った方がいい」
 幾分か時が過ぎ、パーシバルは穏やかな声で語りかけた。
「…」
 なぜ、と言うような瞳を向けるセシリアに彼は言う。
「戻らなかったらもう一人が心配する。大丈夫だ。
 私はお前を愛している。それには何ら変わりない」
「…はい。そうですね」
 口付けを交わした唇に触れて、温もりを確かめてうなずく。
 この温もりがあれば、きっと大丈夫――。
「私、戻ります。お休みなさいませ」
 深く礼をして、扉へと向かう。
 取っ手に手を掛けたところで。
「セシリア」
「あ、はい」
 呼びかけられて、振り返る。
 だが次の言葉までには間があった。
「…済まない。なんでもない。ゆっくり、休むといい」
「はい」
 笑って、彼女は部屋を出た。
 扉が閉まり、パーシバルは深く息を吐く。
 助かった――。
 このまま彼女と一緒にいたら、自分は何をするか判らなかった。
 いや、判断は付くが、抑えなければならないもので。
 愛していると言ってくれた。
 それはとても嬉しかった。長年の想いが実った瞬間だった。
 けれどその実りが真実なのかには、まだ不安があった。
 だから抑え込まなければならなかった。
「…」
 柔らかい感触は本物。
 けれど本当を確かめることは、できない。
 真実は、闇の中。
「…知りたい」


「かつてのお前は、私のことをどう思っていたんだ、セシリア――」











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