Dark and Real(2)
リキア同盟軍は、エトルリア王都アクレイア向けて進軍する。
行軍中、セシリアは輸送隊馬車の荷物整理を手伝っていた。
本来の彼女ならする立場ではないのだが、記憶喪失の彼女を皆が気遣っている。
しかし世話になりっぱなしではいけないと考えて自らやっている。
元々几帳面でしっかりした性格のセシリアは、中が散らかるとすぐに片付けをするし、
皆のためを考えすぐに使うもの、よく使うものを前面に出している。
その手際には輸送隊を引き受けているマリナスも驚いていた。
しかし戦闘中は他の非戦闘員と共に後方にいる。
戦うことも忘れてしまった彼女は、負傷兵の手当てを手伝うのだ。
「……」
傷ついた兵士を見るたびに心が痛み、疼く左肩。
どうしてなのかはわからない。
だが、怖くすら感じてしまうのは、なぜなのか。
「…セシリア様…」
その様子にいたたまれなくなった、クラリーネが声を掛ける。
ハッとなって、セシリアは振り向いて返した。
「どうかしたのかしら?」
「…いえ…セシリア様が、お辛そうに見えまして…」
「ありがとう、気遣ってくれて。…でも、事実なの。
こんなに人が傷つくのを見ていると…辛くなってしまうの」
「……」
知っている彼女の言葉ではない――そう思う。
他者を慈しむ心は彼女そのものだが、戦うことを恐れている。
戦乙女として戦場を駆けていた『魔道軍将』とは思えない。
するとセシリアは自嘲気味に言った。
「ごめんなさい。戦うからには傷つくのは当たり前なのに。
これでは、みんなに申し訳ないわ…」
「そんなことはありませんわ! セシリア様は…セシリア様は…っ…」
言葉が、言葉にならない。声を殺しながらも嗚咽する。
「…ごめんなさい、クラリーネ。…私のせいね…」
優しく姉のように――母親のように――クラリーネを抱き締める。
記憶のない自分がもどかしい。
けれど、思い出してしまったら。
思い出すことが――怖い。
「…クラリーネ、ごめんなさい…だから…泣かないで…」
「…はい…」
姉のような、母親のような温かさ。
それは変わらない。
けれどやはり――本当の姿は。
「…さあ、手当ての続きをしましょう。こうしてはいられないわ」
「はい」
二人とも負傷兵の手当てに入る。
クラリーネは杖を使っていたが、セシリアの方は丁寧に薬と包帯を巻く。
…そう。記憶がないために、扱えるはずの杖も使えると分かっていない。
むやみに刺激してはいけないと言われているが、クラリーネは本当に辛い。
貴族令嬢としての作法、たしなみ、杖の扱い方も、すべてセシリアから学んだというのに。
(…このぐらいなら…よろしいですわよね…)
「――あの、セシリア様」
「? どうしたの?」
不思議そうに翠の瞳を瞬かせるセシリア。
彼女の目の前に、クラリーネはライブの杖を差し出した。
「お使いになってくださいまし」
「…ライブの杖を? でも、私は…」
「大丈夫ですわ。私が…お教えしますから」
複雑な心境だった。
教わった人に、反対に教えている。
早く記憶が戻ってほしいことを、願ってしまう。
クラリーネの心からの願い。
しかし同時に不安も存在した。
そこまで恐怖に怯えさせるものとは何か。
もし記憶を取り戻しても、恐怖で戦いなど出来なくなるのではないか。
押しつぶしてしまうのではないかと。
戦闘が終了した。
互いの無事を喜び、戦への勝利に酔いしれる。
一時の安らぎを少しでも楽しんでもらおうとエルフィンが奏で、ララムが踊る。
明るい拍子に気分も良くなってくる。
しかし傍で演奏を聞いていたセシリアの心は、どこか遠くあった。
(私は、皆と同じように喜べない…)
皆が自分を気遣う。
杖が使えることは分かったものの、あまり皆の役に立てない。
それが距離を置いてしまう。
「どうかしたのかい?」
浮かない顔のセシリアに、エルフィンが問い掛ける。
少し無理して、微笑んで答えた。
「大丈夫です。お気遣いなさらなくとも」
「そうは見えないよ。君もこの軍の一員なのだから素直に喜んでいいんだよ。
苦しみは忘れて…一緒に楽しむといい」
「…エルフィン様」
申し訳なく、瞳を閉じる。
こんなにも自分を気遣う彼に申し訳なくて。
嬉しさと悲しさ、両方がこみ上げる。
「目を開けて。皆と一緒に、楽しもう。私も傍にいるよ」
「はい。ありがとうございます」
言う通りに目を開けて、感謝を述べる。
それからは一緒に小さな宴を楽しんでいた。
ララムの舞いに気を良くした兵士達も、踊り出す。
その滑稽な姿に、思わず笑みがこぼれる。
ふと、誰か見ている気がして、視線を動かす。
すると――視界に飛び込んできたのは、黒い軍服。
全身を闇色に包んだ、豪奢な金色の髪の騎士。
無表情のように、自分を見ている。
けれど切れ長の青い瞳…それに、強く心が痛む。
「…あなたは…?」
思わず、尋ねてしまった。
どうしてなのか、答えが知りたくて。
「……」
けれど彼からの答えは、なかった。
代わりにエルフィンが彼に気付いた。
「パーシバル殿、どうかなされましたか?」
この呼びかけには、彼は応えた。
「いえ…何をしているのかと思いまして」
「小さな宴を開いているのです。良ければご一緒にどうですか?」
「あ、だったらパーシバル様〜! こっちに来てくださいよ〜」
ララムが強引に彼の腕を引っ張って行く。
その様子を、セシリアは目を離すことなく見ていた。
何か…心に引っかかったから。
どうしてか、わからないけれど。
「…あの、エルフィン様。あの方は…?」
問いにエルフィンは快く答えてくれた。
「エトルリア王国の『騎士軍将』パーシバル殿ですよ。
我が軍に協力してくれるそうですよ」
「…そうなのですか…」
言葉には答えるも、目は彼を追っていた。
その彼はララムの行動には関心が無いようで心ここにあらずといった感じだ。
――目が、合う。
「…!」
何かに貫かれたような、錯覚。
どうして、どうして――。
様子がおかしいことに気付いて、エルフィンが二人の間に入る。
「セシリア、どうしたんだい?」
「あっ、エルフィン様…いえ、その…」
「もう休んだ方がいい。君も君の仕事で疲れただろうし。私が送っていくよ」
「あ、はい…ありがとうございます」
エスコートする形で、エルフィンはセシリアを送っていく。
しかし彼女の心は先ほどの瞳から、離れられなかった。
漆黒の闇を歩く姿が一つ。
闇に溶け込んだ装いの、豪奢な金色の髪の騎士――
パーシバルだ。
表情から感情を察することは出来ない。
だが彼はその裏で自らの罪に苛まれていた。
自分を見る、戸惑いの瞳。
自分の瞳に移る、弱々しさ。
すべてを忘れてしまった、戦乙女。
(…私への、罰だな)
もし、助けに向かえていたなら。
もし、彼女と共に戦うことが出来ていたら。
決してあんなことにはならなかった。
傷つき、すべてを忘れる――そんなことには、決して。
最後に言葉を交わしたのは、いつの頃か。
クーデターが起きた直後だったはずだ。
(アクレイアを、出るのか)
(はい。このようなこと、断じて許すことは出来ません)
(…そうか)
(…引きとめないのですね)
(なぜ、そうする必要がある。お前の意思を変えることは出来ない。
私は承知している)
(ええ。だからこそ、私もあなたを止めはしません。
互いに信ずるものがあるからこそ、道を違えるのです)
(…ああ、そうだな)
(…パーシバル将軍。もし…もしも私が――)
(その先は言うな。…分かっている)
(…そうですわね)
最後に見た戦乙女の姿は、悲しいぐらい瞳の中に焼きついている。
そして聞いた、生死不明の報。
戦慄とともに自らを悔やんだ瞬間でもあった。
主君を失ったと思っていたあの時は自分自身を見失ってもいた。
わかっては、いた。
このままではベルンにエトルリアが乗っ取られることも。
反乱など許してはおけないことだと。
しかし、王家へ――そして主君が、心残りで。
間違いを間違いと糾弾できなかった。
それに心のどこかで思っていたのだろう。
そのようなことにならないだろうと、浅はかにも。
エトルリア王国初の、女性軍将。
男性優位の軍内で、実力で上り詰めたその地位。
その力があるからこそ、なまじ知っているからこそ、思ってしまったのだろう。
決して倒れはしないだろうと。
だが思い知ってしまった。
圧倒的な力で切り裂かれる彼女。
いかに自分が無力であったか。
そして――。
「…私は一体、何をしていたのだろうな」
自嘲して目を閉じ、呟く。
一陣の風が、舞った。
「…あなたは…」
ふと掛けられた声に閉じていた目を開ける。
月の光に照らされる鮮やかな翠の髪。
そこに、彼女はいた。
「……」
「あ、あの…パーシバル様…ですよね。あの、私…」
何も言わないのを、誤解したらしい。
怯えて後ずさるように戸惑っている。
そんな彼女の様子に心を痛めながら、言葉を紡ぐ。
「…怯える必要はない。どうかしたのか?」
「え、あ、いえ…特に、と言うわけではないのですが…
お一人でいらっしゃったから…」
咎められると思っているのがろうか。
言葉に覇気がない。
姿も、やけに小さく見えてしまう。
まるで子供だ。
「…あ、あの」
「どうした?」
意を決したように呼びかける。
端整な顔を向けてパーシバルは応えた。
表情は動かない。
気勢を削がれるがセシリアは尋ねた。
「…あなたは、私をご存知なのですか?」
「…」
知っている。
誰よりも、よく――。
そう、答えたかった。
しかし主から「あまり刺激してはいけない」との命を受けている。
主君の命が彼の答えを阻んだ。
「…なぜ、そう訊く?」
逆に尋ねる。間があったが、彼女は答えた。
「私を見る目が…とても、悲しくて、辛そうで…
思ったのです。私を知っているのではないかと…」
鋭い。
この辺りは全く変わらない。
「…もう一つ訊きたい。もし私が知っていると答えたら、どうする気だ?」
「…いえ、それまでです」
意外な答えだと思った。
記憶喪失なら、取り戻したいと願うのが普通ではと。
「よければでよろしいです。お答えいただけますか? あなたは私をご存知か…」
「……」
答えに迷う。
近しい立場であって、今もそうありたい思い。
一方で咎人の自分が、近しくてはいけないという思い。
二つに挟まれる。
主君の命もある。
「…わかりました。…今の問いは…忘れていただけますか」
答えない彼に、申し訳なく謝る。
訊いてはいけない問いだった――そんな風に。
「…?」
ふと、パーシバルは気付いた。
彼女の全身が小刻みに震えている。
それは彼女自身も気づいているようで、両腕で自分の体を抱いている。
「どうかしたのか?」
「……」
ポツリと掠れたような声。
だが、パーシバルははっきりと聞き取った。
――「怖い」と。
「怖い…? 何を恐れている」
「……」
彼女は答えなかった。
無理に聞いても答えてはくれないだろうと思って、もう聞きはしない。
「もう、夜も遅い。休んだらどうだ?」
「…ええ…お気遣いありがとうございます。
ですけど、私…眠れないのです」
「? なぜだ?」
不思議に思って問うてみる。
間があったがセシリアは答えた。
「…闇が、怖いのです」
不思議な答え。
目を閉じて彼女が続ける。
「…眠ると、悪夢を見るのです。深い闇に、どこまでも落ちて行く夢。
闇に落ちたら二度と戻れない…だから、眠れば闇に落ちて行く。
…それが、怖いのです」
なぜ、そんな夢を――考えて、思い当たる。
…圧倒的な力で敗れた、あの戦い。
なす術もなく敗れ生死の境をさまよったあの戦い。
「だから…今も、怖いのです。どこまでも広がる深淵の闇。
入りこめば二度と戻れないから…」
空に浮かぶ月を見上げる。
その姿はあまりにも儚く、脆く。
傍にいるというのに不確かで、触れようとしても消えてしまうように思えて。
もし触れても、崩れてしまいそうで。
自分への罰なのだと改めて認識する。
そんな自分に何が出来るのか。
――いや、償わなければならない。
思わず、彼女の手を取っていた。それから気が付いて、一呼吸置いて言葉を紡ぐ。
「…目を逸らすな」
「…え?」
その言葉にセシリアは目を瞬かせる。
ゆっくりと、言い聞かせるように彼は続けた。
「確かに闇は強く恐れを抱く。だが、光あれば闇もまたあるように、切り離すことは出来ない。
闇は現実。現実から目を逸らして生きることは出来ない」
「…逃げるな、ということですか…?」
「そうだ。逃げても現実は変わらない。苦しみつづけるだけだ」
いくら目を逸らしても、これは現実。
パーシバルは自分にも言い聞かせていた。
ならば自分に出来ることは、どんな事にも立ち向かっていた強さを取り戻させることだとも。
それが自分の償いであると――。
「…仰ることは、よく分かります。逃げても何も変わらない。
ならばいっそのこと立ち向かいその苦しみを取り除けと。
ですが、私にそれが出来るか――」
「出来るかではない。するのだ」
強く――言い切る。
逃げない、立ち向かうための一歩を踏み出せる勇気を、与えたいために。
かつての彼女であって欲しくて。
「……」
しばし、彼女は彼の顔を見ては空を仰いでいた。
どう自分の中で受け止めようか。困っている風だった。
もう少しだけ弁が立てば、もう少し言い方も柔らかくできただろうが
いかんせん、不器用な性格で社交的ではないパーシバルでは限界がある。
だが、言葉をいくら変えようとも中にある思い――伝えたいことは変わらない。
「…わかりました。逃げつづければ、苦しむだけ」
やがて口を開いたセシリアの声は、凛としていて。
戦乙女としての彼女を思わせた。
月の光に照らされていても、その姿は脆くなく確かにそこに存在している。
手を離してもそれはよくわかる。
「たとえ記憶がなくとも過去は変わらない。前に進むためには克服しなければならない。
恐れていても、受け入られるようになれと…あなたの仰りたいことはそうでしょう?」
「…ああ」
さすがだな――内心そう思った。
やはり記憶はなくとも、彼女は紛れもなく彼女なのだと。
「ならば、私は進みます。逃げてばかりは――嫌ですから」
クスリと、セシリアが笑みをこぼした。
別れる前と全く変わらない、この笑み。
これが彼女だ。
ずっと見てきた彼女の姿――。
「そうか。だが一気にとは言わない。少しずつでいい。闇を、現実を恐れぬようになればいい」
「はい。そのつもりです」
決意を表す声に、迷いはほとんどない。
影ながらでいい。
闇を受け止められるようにすること、彼女を助けることが償い。
だから、何も伝えない。
罪を犯した自分が近しくなることは許されないと思っているから。
しかし。
「セシリア」
思わず、名を呼んでいた。
いつも呼びかけていたように。
わずかでも、封じられた記憶の扉を開こうとするように。
「…なぜ…私の名を…?」
当の彼女は自分の名を呼ばれ瞳を瞬かせていた。
けれどしばし考えて一つの結論に行き当たる。
「もしかして、エルフィン様からお聞きしました?」
「…ああ」
少し言葉が濁ったが、セシリアは気にしていなかったようでやっぱり、といった顔をする。
「申し訳ありません。少しだけもしかしたら…と思ってしまいました」
いや、それは事実だ。
心の中でそう呟く。
だが言うことは出来ない。
「では、私…そろそろ休みます。パーシバル様、本当にありがとうございました。
私、強くなれる気がします。闇に負けないように」
深々と礼をして、確かな足取りで彼女は去って行く。
見送ってからパーシバルも踵を返す。
途中で一度だけ、彼は振り返った。
(記憶を取り戻して欲しいとは、願わない。
だが、せめて強く。かつてのようであってくれ。私は――)
そして、誰も聞こえない声で、呟いた。
「お前を愛しているよ、セシリア――」
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