09:物理的距離・精神的距離
物理的な距離は、今までとても近かった。でも精神的な距離はとても遠かった。
そして、物理的な距離も、今……遠くなる。
恐れていたことが、現実になってしまった。
まだ朝が冷える早春のその日、エレインは三日後に控えた遠方への駐留任務に備えて最終確認をしていた。
半年もの任務になるので色々荷物も多い。持って行く物を書いた紙を見ながら兵舎の廊下を歩いていた。
「あとはみんなに手紙書くから筆記用具でしょ…えーと、あとは…」
前方をよく見ていないエレイン。
ドンッ!
廊下の角を曲がろうとした所で人とぶつかってしまった。
その弾みでしりもちをつき、紙が落ちる。
「あいたた…」
「ごめん、エレイン。大丈夫かい?」
「あ…オスカー…」
ぶつかったのは友人のオスカー。心なしか顔に焦りが見える。
「ごめんなさい、前全然見てなかったから…」
「いや、急いでた私も悪いから」
「…あら? 何か落としてるわよ?」
自分の紙を回収して、もう一つなにかが落ちていることに気が付いて立ちながら拾い上げる。
「あ、ごめん…」
「これって………え?」
白の封筒に書かれた文字は、紛れもなく彼の字。
だがその書かれた文字は――「除隊届」
一気に血の気が引く。
「…う、うそ…でしょ? オスカー、除隊って!!」
「エレイン、落ちついて!」
何かの間違いだといわんばかりに混乱し始めるエレイン。
両腕を押さえてオスカーは止めた。
「どうして? どうしてなの!?」
「きちんと話すから、落ちついてくれないか」
「……」
彼の必死な声にエレインは落ち着きを取り戻す。
「場所を移そう。詳しくはそこで」
「…わかったわ」
コクリとうなずいて、エレインはオスカーの後を着いて行った。
あまり使われていない部屋で、二人は向かい合った。
窓から入る日の光は眩しいが心は暗い。
ゆっくり、オスカーは話し始めた。
「…前に、父の身体が思わしくないって話は覚えているかい?」
「ええ。良くなればいいなって祈ったのを覚えてる…」
「…昨日、弟のボーレから手紙が来た。……父が、亡くなったと……」
絞り出すような声で、オスカーはその言葉を口にした。
「…亡く、なられたの…」
さあっとエレインの顔も青ざめていく。
「多分葬儀はもうすませているとは思う。だから…私が戻ってやらないといけないんだ。
弟二人だけでは、生活なんてとても出来やしないから」
「だから、除隊するの?」
「ああ。この五年…長い休暇のときには帰っていたけど、それでも弟たちにはあまり構ってやれなかったし、
私が傍にいてやらないと。きっと今頃ヨファは泣いているだろうし…」
「ヨファ君って、いくつなの?」
「今年で十歳だよ。今までは父がいたからまだ良かったけれど、もう私が護らないといけない」
「だからって…!」
エレインは、掴みかかる。
「私は嫌! オスカーがいなくなるなんて嫌よ!! このことを知ればケビンだってきっと止めるわ!!
お願い………行かないでよ………」
そのまま、彼女は泣いた。
任務で離れ離れになることには覚悟を決めていたが、除隊による別離が許せなかった。
しかしオスカーは冷静に、言った。
「もう、決めたことなんだ。私が大切なのは家族だから。元々騎士団に入ったのも、家族のためだったから」
「だったら辞める必要はないわよ…騎士団の俸給の高さはよくわかっているでしょうに…。生活費はどうするの」
「故郷で仕事を探したり、畑仕事でもやるよ。今はともあれ、弟たちの傍にいてやりたいんだ」
「だったら、うちの教会に弟君たちを連れて来ればいいのよ! 今更二人増えても平気だし…お願い、ねえ」
エレインは必死だった。
行かないで。離れることが苦痛な彼と別れたくない。
だが――オスカーは首を横に振った。
「気持ちは嬉しいけれど、そこまで世話になるわけにはいかないよ」
「でも…!」
「エレイン。君は君だよ。私なんかにそこまで構わなくていいよ。
君は教会の子達や司祭ご夫婦、そしてご両親にかまってあげるべきだよ。私は平気だから」
「……!」
平気そうに見えないのに――。
思うとオスカーは、言った。
「君の幸せを壊したくないんだ。私達がむやみに君の世界に入りこんじゃいけない」
「……」
その言葉はエレインにとって宣告だった。
自分と、彼は相容れない……。
「だから気持ちは嬉しいけれど、大丈夫。ありがとう」
「オスカー…!」
「機会があればメリオルには来るよ。だから…さよならとは言わない。本当に、今までありがとう。
ケビンに悪いけれど伝えておいてくれないかな。君と過ごせて楽しかったと」
「…届けが受理されたら、すぐに出るつもりなのね」
「一刻も早く、帰ってやらないといけないからね」
「…そうね」
エレインはもう悪あがきを止めた。
彼の幸せは、家族のもとにしかないのだ。
だから……もう、止められない……。
「それじゃ、先に行くよ」
パタン。
扉が開いて、閉まる音。
エレインはその場にへたり込む。
「…うっ……うっ……!」
涙が込み上げる。止まらない。止めようとしても止められない。
「オスカー…っ。オスカー……!!」
彼が行ってしまう。遠くに行ってしまう。
でも止められなかった。
心も今まで遠かったけれど、もう彼の姿も遠くなる。
別の世界の人になってしまう。
エレインは泣いた。涙が尽きるまで。
その後、オスカーは除隊が受け入れられ、すぐにメリオルを経った。
エレインは任務準備のため見送りもできなかった。
そしてすぐに時が過ぎて出立したため、ケビンが彼の除隊を知ったのは彼女が帰ってきた半年後のことになる。
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