014:聖杯








 心と、身体が切り離されている。




 そんな感覚をステラは覚えていた。




 心は嘆きに暮れて何をする気力もないのに、
 身体はしっかりと立っていて、鎮魂の歌を紡いでいる。




 こんな日が来るとは思わなかった。
 幼い頃から慕っていた人の葬儀に出る。




 そして、自分が鎮魂の歌を歌うことになるとは。






「……」
 エリミーヌ教団本部の聖杯堂で、ステラは祈りを捧げていた。
 跪き、ひたすら必死に神に祈りを捧げる。
 だがこのようなことをして意味があるのだろうかと――教団の修道女であるにも関わらず思ってしまった。
 祈っても、愛した人は戻って来ない…。
 思い出すと涙が溢れ出てくる。
「……セレト様……セレト…さまぁ……」
 紫水晶のような瞳は涙で濡れ、泣きはらしたか充血気味。
 それでも涙は止まらない。
「…聖…杯…」
 ステラは硝子のケースに厳重にしまわれている杯に目を留めた。
 聖女の用いた聖なる杯。数々の奇跡をこれで起こしたと伝えられている。
「…神よ…聖女エリミーヌよ…」
 また、祈りを捧げ始める。
「…私はどうなっても構いません…。どのような罰もお受けいたします…。
 ですから…、…どうか…どうか……奇跡を……っ。セレト様を、返してぇ……」
 涙を流しながらの祈り。
 ただ彼が生きてくれればいい。自己犠牲の念もこもった祈りは無私。
「私以外にも…あの方のために涙する方々はいらっしゃるのです…。
 その方たちのためにも…どうか…どうか…」
 コツーン、カツーン…。
 ブーツの音。泣きはらした瞳から涙を拭って振り向いた彼女は、その直後現れた二人の姿に痛んだ。
「…ステラ、ここにいたのね…」
「…セシリア様…。パーシバル様も…」
 二人とも黒の喪服姿(パーシバルは普段とどこが違うと言われても、あまり変わり映えしないが)。
 優しい声でセシリアはステラに声をかけた。
「…ソニアやルティスが心配していたわ。…ヨーデル司祭も、あなたのこと…」
「…」
 一番辛いのは、この方なのに――ステラは思った。
 実姉だから喪った悲しみと辛さは自分以上のはずなのに、泣きはらした自分を気遣っている。
「…セシリア、様…」
 この方のためにも、どうか祈りを聞き届けてください。
 どうか奇跡を。
 ステラは聖杯に視線を戻した。
「…あれは、聖女エリミーヌの聖杯ね?」
「…はい…」
「…あれが、聖杯なのか? 初めて見たな」
 その言葉を口にするのはパーシバル。ステラが、言葉を受けて続ける。
「元々は…聖女の塔に保管されておりましたが、数年前に信者の方々に実際に見てもらう方がいいだろうと、
 この礼拝堂に安置したのです…。聖女様の、奇跡の品として…」
「…私も、聞いたことがあるわ。『奇跡の血』を受けた杯は…聖なる力を宿し奇跡を起こしたと…」
「…奇跡、か。実際に起こるものなのか? 目にしたことがないから判らないな」
 現実的な話をするパーシバル。
 杖魔法は目にしたことはあるし、実際治療を何度も受けている。
 だが、決して治らないであろうといわれた病や、怪我を治癒する――人間には不可能な『奇跡』など、
 お目にかかったことなどない。
「…その話には、諸説あります…」
 涙を拭ってステラは話を続ける。
 話していれば、少しは気が紛れると思った。
「エリミーヌ様自らの血を受けた、神のお使いである方がその血を流した、などありますが、
 私が本部書庫で見つけた話にはこうありました…。
 聖者と称えられた方が、お亡くなりになりましたが、その死を悲しまれた方が、聖なる槍で亡骸を突き刺したそうです。
 すると、その傷口から…血が溢れ出したのです」
「…もう死んでいるはずの人間から…?」
「はい。その血を受けた杯が聖杯となり、奇跡は起きたそうです。その方は…蘇ったのです」
「その記述に、信憑性は?」
 尋ねられると、ステラは答えた。
「あると思います。他の記述を見ていると、巧妙に何かを隠しているように見えたからです…。
 それに、その記述のあった本は本部書庫の奥…隠されているようにしまわれた物でしたから…」
「…なら聖杯は本当に奇跡を起こせるの…?」
「わかりません。私達は、その奇跡を目にしたことがありませんから。…でも…願って、しまうのです…」
 聖杯に向かって、何度目かの祈りをステラは捧げた。
「もし、蘇るなら…私はどうなっても構いませんから…どうか…」
 必死に祈りを捧げる彼女は、痛々しい。
「…ステラ。そろそろ屋敷に戻ったほうがいいわ…。ご家族方が心配されるわ」
「……」
 けれど、彼女は答えない。見届けてからゆっくり二人は聖杯堂を出た。
「…痛々しいわ…」
「奇跡に縋るほど…か。だが、セシリア」
「…はい」
「お前こそ…見ていて痛々しい。お前もゆっくり、休め」
「…」
 コクリ――うなずいてセシリアは教団本部を出ようと歩く。
 共にパーシバルも歩くがその前に光るものを目の端に見て振り返った。
「…あれは…」
 あの聖杯が、光をわずかながら帯びているように見えた。
 驚いて瞬きをすると光はもうない。単なる目の錯覚かと思ったが、見えない。
 もし奇跡が起きるなら――か。




 起きるなら――どうか、笑顔を取り戻させて欲しい。




(まさか、な)
 否定して、パーシバルはセシリアを送るべく共に歩き出した。







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