010:夢








 夢であったら良いのに、と。



 分かっているけれど願ってしまう。



 決して戻って来ない「過去」。



 この「現実」が、「夢」であったら、良いのに。





「…ルっ。セシル!」
 長い付き合いの友人であり、同僚の声でセシリアは我に返った。
「どうかして? フェレス」
 いつものように応えるが、見たフェレスは苦い表情で言う。
「…お前さ、こんなに仕事持ちこんで身体は大丈夫なのか?」
 言って机に山のように積まれた書類を目で指した。
 一日だけならまだいいが、この量をここ十数日一人でこなしているのだ。
 絶対身体をおかしくするに決まっている。
 フェレスはそのことを懸念して言った。しかしセシリアは――。
「問題ないわ。対処できることはすぐに対処しないとならないわ。
 魔道軍の将官である以上、そう休むわけにもいかないわ」
「だからって、お前このところ働きすぎ。レーフ様だって心配してたぞ?
 少しは休めよ」
「放っておいて」
 刺々しい言い方で、セシリアは話を止めた。
 普段の彼女ではない。もっと別の言い方で話を止めようとする。
「私のことは心配ないから、大丈夫よ。あなただって仕事があるでしょう?
 お願い、一人にして。出て行って」
「……」
 険のある雰囲気の中にも、辛さがうかがえる姿にフェレスは心の中で嘆息した。
 そして、何も言わずに出て行った。
「――どうだ、フェレス。セシリアの様子…」
 出てしばし歩いたところ、先の話に出て来た人物が声をかけたので、フェレスは敬礼をした。
「レーフ将軍」
 彼の名は、レーフ=エイメス。先代魔道軍将パントの右腕であり、現在は軍将代理を務めている。
 パントが辞した時彼に次代軍将の白羽の矢が立ったが、それを断った。
 自分はその器ではないと。
 それから他の実力者も次々に断り、人材がいないことから現在まで空席。
 権力争いも起きており、波乱が続く魔道軍をなんとかまとめているので多忙なのだ。
 フェレス、セシリアの二人は着実に軍功を挙げており、将軍位に。
 二人とも若干二十歳にしてレーフの片腕的存在だ。
 だが、今は……。
「ダメです。セシル――セシリア…俺が言ってもダメです。
 自分を傷つけて…追い詰めてます。やっぱり、堪えてますね…」
「仕方ないだろう。たった一人の弟を、亡くしては…」
 フェレスとレーフの心は、つい一ヶ月前に飛ぶ。
 保護領としている西方三島から、知らせが入った。
 彼女の弟セレトが、殉死したのだと。
 聞いた自分たちが信じられなかった。
 彼は士官学校を卒業してまだそんなに時間は経っていなかったが主席卒業であり、
 魔道、戦術に関する能力は姉と同じく高く有していた。いとも簡単に死ぬような人間ではなかった。
 だが総督府に確認したら事実だという。
 任務があったのでセシリアがこの事実を聞いたのはそれから数日後。
 自分たちが、絶望への使者となってしまった。
「…あいつ、葬儀じゃ全く泣きませんでした。でも、辛そうなの…よく分かりましたよ」
「全くだ。気丈で…強くあろうと周りに弱さは見せないからな、彼女」
「ええ。でもこのままじゃまずいですよ。倒れます」
「ああ。…明日は休めと命じてくる。心を休めないと彼女はどうにもならない」
 その通りだなとフェレスはうなずいて、ピンと閃いた。
「じゃあ、心を休めるための手配でもちょっとしてきていいですか?」
「? どうしたんだ?」
「いやあ、思い出したことがありまして」
 苦笑いで、フェレスは言った。




 翌日、セシリアは非番を命じられアクレイアの屋敷で一人、ボウっとしていた。
 敷地内にある薬草園の一角に設けられた茶会場で、紅茶を飲みながら空を眺める。
「…」
 セシリアの心は、どこかここにあらず。
 たった一人の弟を亡くした辛さが、精神を蝕んでいた。
 ここの薬草園でよく、友人たちを呼んでお茶会を開いた。
 弟は薬学に秀でていて身体にいいお茶をよく自分で作っていた。
 好評でその時の笑顔が、鮮明に記憶で残っている。
(夢なら、いいのに)
 今ここにある光景が実は夢。
 目が覚めれば、弟は「おはようございます、姉上」と元気な声で挨拶する。
 そんな日常を望んでしまっている。
「…セレト…私、ダメな姉よね…」
 自分は後を追う弟に何かしてやれただろうか?
 軍に入ってから教えてやろうと決めていたのに、こんなことになってしまって。
 葬儀でも辛かったのに。でも軍人でなくてはいけなくて、涙が出なかった。
 姉失格だ。
「…お嬢様」
 そこに執事が恭しく礼をして声をかけた。
「…なあに?」
「お客様がいらっしゃっておりますが…」
「今は、誰にも会いたくないわ。悪いけれど断って」
「…しかし、もうそこまでいらっしゃっておりまして…」
 執事の応答に、セシリアは訝しげに眉を寄せ、立ち上がった。
「一体誰なの?」
「――セシリア」
「!」
 声に過敏に反応した。追って姿を現した人物にどこか虚ろな瞳を合わせる。
「…パー、シバル…将、軍…」
「…下がっていて、もらえるか」
 パーシバルの言葉に執事は従ってその場を去る。
 沈黙と共に二人だけの場になる。
「……なにか、ご用でしょうか」
 視線を落として尋ねる。いくらかの逡巡の後、彼は答えた。
「様子を見に来た。私も今日は休みでな」
「わざわざありがとうございます」
 そのままでセシリアは応える。
 すぐ傍に来て、彼が口を開いた。
「食事は摂っているか?」
「…はい」
「休憩は、取っているか?」
「はい」
「…眠れて、いるのか?」
「……はい」
 いくつかの質問と、答え。聞いてパーシバルは右手で、セシリアのうつむいた顔を持ち上げた。
「! しょ…」
「満足に休めているのか。その顔で」
 彼女の目の下には疲労を示す大きな隈が。
 ただそれは肉体的疲労ではなく精神的疲労が濃いからだと、パーシバルにはわかっていた。
「……」
「…セシリア」
 優しい声。表情はあまり変わらずともその声でわかる。
 自分を気遣ってくれていると。
 それが嬉しくもあり、申し訳なくもあり、セシリアはその翠の瞳に涙を溜めている。
「…パーシバル、将軍…」
「身内の死を悲しむのは当然だ。いいんだ、泣いて」
 心の深淵に染み込むような声。
 強がる必要はない。悲しんでいい。
 抱え込まないで、決して。
 声に秘められた思いを聞いてセシリアは涙をぽろぽろと流し始めた。
「……ごめんな、さい…。私…わたしっ……」
「お前の今の姿を、セレトも望んでいない。自分を痛めつけるな。自分を、壊すな」
「…将軍…ごめんなさい…」
 涙を流しつづける彼女に、パーシバルの心は痛んだ。
 彼の死は謀殺だという噂も飛び交っている。
 だがそんなこと関係なしに、肉親の死が彼女を壊しかけている。
(夢であればいいのに)
 普段現実を見据える彼も、こんな彼女の姿は見たくなかった。
 崩れていってしまいそうな存在。
(これが夢なら、どんなにいいだろうか)
 有り得ないはずなのに、願ってしまう。





 夢なら覚めて欲しいと――。








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